Thursday, October 25, 2018

付近の史跡探訪~その壱~ 野江水神社 

あの豊臣秀吉もお参りしたという野江水神社。
ひっそりと小さな神社ではありますが、大阪城築城に際しては、大きな役目を果たしたようです。
また水害が多かったこの地の水神を鎮め五穀豊穣を祈ったのでしょう。

シグナスカドヤの近くには関目神社野江水神社の2つの神社が有って、うちはちょうどその神社の境目に位置します。
初詣などは関目神社に行くのですが、昔から縁日の夜店とかは野江水神社が盛大でした。

城東区と都島区の史跡の場所を調べてみました

参考にさせていただいたのは大阪市の名所旧跡史跡というサイトです。ありがとうございます。

ざっとこんな感じで青色のマーカーが城東区の史跡、オレンジ色のマーカーが都島区の史跡です。旭区は調べておりませんが、そのうちに調べておきます。

北西から南東に伸びるラインが意味ありげですね

なにやら淀川と大川の分岐から放出深江橋方面に斜めに帯状に史跡が並んでいるのは興味深いです。
そしてシグナスカドヤ付近に史跡が乏しいのは少しさびしいですが仕方ありませんね。

史跡探訪とは年寄り臭いですが、やはり歴史を知ることは重要なので、ぼちぼちとブログに上げていきます。

野江水神社

いよいよ本題の野江水神社に関してです。

野江は500年ほど前は水害が多かったようです。
なにせ中之島あたりを流れる現在の大川が淀川本流で、現在の淀川と大川に挟まれた部分は湿地帯が多く、今では大阪の中心地梅田も、湿地を埋めて田んぼにしたので「埋め田」そこから転じて「梅田」になったそうです。
この地図でもわかると思いますが、野江の北側でかつての淀川は急カーブしており、大雨の時はカーブで滞った水が土地の低い野江方面へ水が溢れ出たり、支流へ水が逆流したと容易に想像ができます。

野江水神社の由来にも記されています。


最初の一節にはこう記されています

水波女大神(みずはのめのおおかみ)
昔このあたりは土地が低く、再々水害た被むる事がありました。そこで水難からのがれ
ようとして水の神様がおまつりされました。
天文二年( 1533年)三好宗三(政長)がこの附近に榎立築城の際、水害を被むったので水火除難の守護神として城内に社を建てて篤くまつられたのが現在の社殿の位置と言われています。

なかなか古い歴史が有るんだな~

1533年ですからもうすぐ500歳を迎えるんですね~

あの豊臣秀吉も!

「天正十一年(1583年)豊臣秀吉も大阪築城に際し、水火除難の守護神として近郷の諸社中
最も崇敬篤く、社殿を修築し幣帛を奉り国家泰平を祈願いたしました。」

大阪城より北東方向(艮(うしとら)の方位)に位置する当神社は、災難除けにぴったりだったのかも知れませんね。

「現今の社殿は明治十六年(1883年)の造営後度々修築を加え今日に至ります。」

と書かれていますので今の社殿も135歳を迎えるんですね。 こりゃ~なかなかの歴史も持ち主です。

では写真を掲載します

まずは鳥居です。
何やら金属で補強してありますね。 これも明治の頃からあるんでしょうか?

提灯がずらりと飾ってありました。

鳥居を裏側から撮りました。 太いクスノキが2本並んでおりますが、昔はもっと背が高く鬱蒼としていた記憶があります。 きっと大きく育ちすぎたので、上の方を切ったのかもしてません。

これが築135年の本殿です。

なにやら狛犬は新しそうですね。 一時流行った狛犬盗難で被害に遭ったのでしょうか?

本殿の左奥には野江稲荷大明神が有り、赤い色が鮮やかです。

実はこの通路、野江内代駅への近道になっており、結構歩行者が多いんですよ。

赤が写真映えするので、数枚撮りました(^_^;)


本殿の内部です。

戦没者の霊がここに眠っています。 お国のためにありがとうございました。

クスノキの根本に咲いておりました。

最後に立ち去り際、振り向いて1枚撮りました。

やはり地元の歴史を知るのも良いことですね。

どうやらこの地はかつて摂津榎並城が有ったようです。
どれほどの規模のお城が有ったかは、またそのうちに掘り下げてみようと思います。

No comments:

Post a Comment